僕がやままに荘に帰って来たのは、日が沈んで一分と経たない時だった。
 玄さんのたこ焼きから立つ蒸気が僕の左手を生ぬるく温めている。
 たこ焼きを買っておいてよかったと僕は思う。もしこの左手に何の重みも温度もなかったら、きっと僕の左手は緊張と冷え切った血液でガクガクと震えていただろうから。
「…………」
 正直に言えば、決心はついていない。
 なんでみぃ姉さんが怒ったのかわからないし、何を謝ればいいのかもまだわかっていない。
 玄さんは自分の正直な気持ちを伝えればいいと言った。
 正直な気持ちとはなんなのだろう?
 スーパーに買い物に行ったとき、買うか迷っていた弁当に二割引きのシールが貼られた時の喜びみたいなものだろうか?
 それとも、電車で自分の隣にいたいかにも真面目そうな男性が痴漢と叫ばれ、事務所に連れてかれる様子を見てしまった居た堪れない気持ちだろうか?
 多分そうであってそうでない。的を得ているが、真ん中じゃない。
 どんなに考えたって、答えは僕では出せないだろう。でもここで立ち止まることはできない。少なくともこの左手に持ったたこ焼きが冷める前に踏みださなければならないだろう。
「…………うん」
 僕はみぃ姉さんの部屋に行くために階段を登りはじめた。
 階段と靴とが発する金属音は僕の心を急かすように叩いた。
 アパートの廊下なんていうものはそんな距離があるものじゃないが、その時僕が感じた時間間隔はとても長く、感じた。
 202号室。
 みぃ姉さんの部屋の前。
 ここで佇んでも仕方ない。
 僕は右手で軽く二回ノックする。
 すぐに人が玄関に近付いてくる気配がした。
 しかし、すぐにそのドアが開かれることはなかった。
「そのままで聞いてもらえますか?」
 僕は相手に聞こえる程度に静かに言う。
 相手から返事はない。だが不思議と僕はそれが肯定の意味があるものだと思った。
「……正直いっちゃいますと、実はまだなんでみぃ姉さんが怒ったか分からないです」
 少し悔しかった。
「帝奈ちゃんや玄さんにも相談したんですが、答えはわかりません」
 なんて僕は嫌なやつだろう。
「でも、」
 それでも
「僕は今日みぃ姉さんと一緒に遊びに行きたかったです」
 多分僕はその時震えてうまく言えなかったと思う。
 
 僕がそう言ってから十秒ぐらいの間を開けて、扉が開いた。
 そして僕は目が合わなかった。
 扉の陰から出てきた帝奈ちゃんと。

「「…………」」
 沈黙とはこのことだろう。
 二人は目線が合うように、首を下げて、上げた。
「…………なぜ?」
 僕の第一声。
「みぃ姉さんに留守番をお願いされたの」
 と帝奈ちゃんは即答。
「ならすぐドアを開けてくれればいいのに」
 と恨めしそうに僕。
「不審者とスーツ姿の人がいたら開けてはいけないと言われたの♪」
 と滅多に拝めない帝奈ちゃんは笑顔。
「僕はスーツを着ていないんだけど」
 と両手を広げてアピールする僕。
「でも不審ではあったわ」
 とゴミを見るような目で帝奈ちゃん。
「そうかい」
「そうよ」
 そんなコントをしていると、
「人の部屋の前で何ちちくりあってるんだお前らは」
 ドスの利いた声を掛けられた。
 みぃ姉さんである。
「あ、いえ、その……」
 多分生まれて初めて僕は慌てたと思う。
「みぃ姉さん。不審者だけどドアを開けてしまったわ」
 と帝奈ちゃんが言う。
 それを聞いたみぃ姉さんは片眉を吊り上げて
「ほう、不審だったのか?」
 それに答えて
「ええ、とっても不審だったわ」
 と帝奈ちゃん。
 僕は逃げ場のない戦場に立たされたようだ。
 でも逃げよう。
「あのみぃ姉さん今日はすみませんでした。これよかったらどうぞ」
 そういって、左手にあったものを渡した。
「これは?」
「玄さんのたこ焼きです」
「……ふむ」
 そう言って中を覗いたみぃ姉さんは少し嬉しそう口の端を吊り上げた。
「……そ、それじゃ僕はこれで」
 そう言って自分の部屋へ戻ろうとしたが、襟を後ろかつかまれた。
「随分と量があるな」
 みぃ姉さんはこっちを見ないでそう言う。
「え、ええ。安かったんでつい」
「そうか」
「???」
 僕はちょっと混乱する。
 しかし、それはみぃ姉さんの一言で吹き飛んだ。
「寄っていけ。一緒に食おう」
「はい……って、え!?」
「ちょっと私には量が多いから、片付けるのを手伝えと言っているんだ」
「で、でも玄さんはみぃ姉さんは五個は軽く平らげるって……」
 その後の言葉続かない。
 なぜならみぃ姉さんがものすごい目で睨んでいたから。
「お前に答えをやろう。私が怒っていたのはお前のそういうところだ!!」
 そういってみぃ姉さんはげんこつを一発僕の頭に突き刺した。
 痛たかった。
 でもちょっと嬉しかった。
「ともかく早く着替えてこい。外着じゃ私の部屋には入れん!」
「は、はい!」
 そう言って僕は自分の部屋に駆け込んだ。


 私は二人がじゃれあっている姿を見上げながら見ていた。
 なぜだかとてもムカムカする。
 みぃ姉さんがレオ君を一括するとレオ君は足早に部屋に駆け込んでいった。
 私には部屋に駆け込むレオ君の横顔が嬉しそうに見えた。
 だからかもしれない。
 ちょっと意地悪してやろうと思った。
 この目の前の大人の女に。
「みぃ姉さん」
「ああ、帝奈。留守番ありがとな」
「意地汚いわ盗み聞きなんて」
「え!? な、なんのことだい?」
 白々しくもみぃ姉さんはとぼけた。
「『答えをやろう』って、みぃ姉さんはレオ君が言っていたことをまるで一部始終聞いていたような応え方よね」
「あ、あはははは。た、たまたまだよ帝奈」
 この女はまだ白を切るらしい。
「じゃあ、聞いてないのね?」
「ああ、聞いてないよ」
「じゃあ今度の休みにレオ君を誘って遊びに行くわ」
「な!?」
「だって今さっき、このドアの前で『一緒に遊びに行きたい』って言われたばかりだから」
「あ、あれは! 『みぃ姉さんと一緒に遊びに行きたかった』って言っていただろう! ……って!」
「あれあれ、おかしいわ? みぃ姉さんは何も聞いてない筈なのになんで私とレオ君の会話の内容を知っているのかしら?」
 多分この時の私はとても可愛らしい笑顔をしていたに違いない。
「が、がぐぅうう……」
 みぃ姉さんは悔しそうにたこ焼きが入った袋を握り占めていた。
 ちょっとこの胸のもやもやが晴れたような気がする。
 しかし、それはたった一瞬で曇ることとなる。
 たまたま丁度よくレオ君が着替えて戻ってきたからである。
 いや、正確にはそうではなく、悔し紛れに目の前の女がレオ君の腕に自分の腕を絡めてそのまま部屋に押し込んだからである。
 もっと正確にいえば、その時困惑した顔から少し幸せそうな顔になったその男の顔を見たからである。
 そして、女は戻って来て言う。
「妬くな妬くな♪」
「……ふん!」
 多分その時彼女にはリンゴのような顔の少女がその眼に映ったはずだ。
 あの愚かなネコ科の男とは違い、彼女もまた私と同じ聡い女。相手の気持ちを理解できる人。
 だからだろう。こんなにも感情が荒れたのは。
「ほら、おいで。一緒に食べよう」
 そういってみぃ姉さんは私に手を差し伸べる。
「あらいいの? 二人の時間を邪魔しちゃって?」
「なに、大人と子供には越えられない壁があるわけだ」
 だからこんなにも彼女が憎い。
「もしかしたら、こっちの趣味があるかもしれないわ」
「……なら多分、私は好きにはなっていない」
「そうね。そしたら私も好きになっていないわ」
 だからこんなにも彼女とそして彼が好きなのだ。


あとがき
 最近資格の勉強で忙しいと自分で思っていたのですが、たまに小説のひとつでも書かないとやっていけませんよw
 ってことで一応やままには終わりです。ところどころに出てきた裏設定は管理人が書く気になったらあかすということで勘弁してやってください。
 電撃用の小説はとうとう間に合わず、文学賞ようの作品を書く気がまったくなくなってしまったわけですが、おいおい頑張って行こうかと思います。ではw
平成20年 3月10日 行天大翔


ポチっとひと押しで幸せに(主に作者が)



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